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大阪地方裁判所 昭和52年(わ)3083号 判決 1977年11月30日

主文

被告人を懲役一年に処する。

未決勾留日数中一〇五日を右刑に算入する。

この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

押収してある刺身包丁一本(昭和五二年押第九〇二号の一)を没収する。

理由

(事実)

一、本件犯行に至る経緯

被告人は、ウノ(大正元年一二月二九日生)と昭和三四年ころ内縁関係に入り、同四九年一二月五日婚姻の届出を済ませたものであるが、同女は同五〇年八月ころから胃がんを患い、そのころから、大阪府枚方市北中振三丁目八番一四号所在の吉田外科病院に入退院を繰り返し、その間、小康を得て二〇日間程同病院で付き添い婦をしたこともあつたが、同五二年三月一四日五度目の入院後は病状が悪化し、次第に激痛を訴えるようになり、鎮痛剤の注射は四月半ばからは一日一ないし三回、五月からはおおむね一日二回以上、多い時には五回にも及んでいた。被告人は、そのため、職を投げうつて、同病院に泊まり込み、昼夜を問わず、殆ど一人で献身的に付き添い看護し、同女の回復に一縷の望みを託して、秘かに、他の病院で診断を受けさせたり、又は、ロイヤルゼリーを服用させたりしてみたがその効もなく、同女の病勢が一層進み、前記付き添い婦の経験によつてがんで余命幾許もないと知るようになつたと思われる同女から、同年六月末ごろから同年七月四日まで、連日のように、「助からないのだから早く殺してくれ。」と泣訴哀願されるようになつた。そして、同月四日には同女が治療に対し抵抗を示すようになつたので、被告人は、右嘱託を容れるべきか否か思い迷つていたところ、同月五日夜同女が刃物で左手首を切つて自殺しようとしたが既に力がなく動脈を切ることができず、駈けつけた看護婦らに発見されて催眠剤を投與されたことがあつて、その夜、被告人から前記吉田外科病院の行岡医師に対しウノを楽にしてやつてくれと頼んだが、かえつて同医師から、あと一週間位だから我慢しろとさとされた。そうこうするうち、更に、翌六日午前九時三〇分ころ、同女が兵児帯を首に巻きつけ重ねて自殺を図つたが、被告人が見つけてこれをとめ、元気づけたところ、同女から逆ににらまれた。

二、罪となる事実

被告人は、ここにおいて、ウノを病苦から免れさせるため、同女がためらわぬ限り、同女の嘱託をいれて、いつそ、同女を殺害しようと考えるに至り、刃体の長さ二一センチメートルの刺身包丁一丁(昭和五二年押第九〇二号の一)を買い求め、同日午前一一時三〇分ころ、同病院二階二号室で、右包丁を仰臥している同女に示したところ、同女がこれを左胸部にもつていくので、遂にその決意を固め、右包丁で同女の左胸部を二回突き刺し、よつて、即時同所で、同女を心臓、大動脈を刺通する胸部刺創、肺肝刺創に基づく出血失血により死亡させ、もつて、嘱託により殺害したものである。

(証拠の標目)<省略>

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、(一)本件は、安楽死であつて、刑法三五条の正当行為である。即ち、本件は、名古屋高等裁判所昭和三七年一二月二二日判決の掲げる六要件のうち、次の二要件のほかはこれを充足していることには問題がなく、問題となるのは、医師の手によらなかつたこと及び方法が倫理的に妥当であつたかどうかであるが、医師が安楽死を拒んでいる本件では医師によりえない特別な事情があるというべきであり、次に、安楽死の方法として倫理的妥当な方法とは死にゆく者にとつて安楽であれば足り、傍目に美的に映らないとしても、本件の方法は、一般人の行いうる方法としては最も苦痛の少ないものであるから、この要件も充たしており、したがつて、本件は、安楽死として正当行為にあたる。(二)本件は、また、同時に、刑法三七条の緊急避難行為にあたる。即ち、本件では、緊急避難の要件である、危難の現在性、補充の原則及び避難の意思についてこれらの要件を充たしていることは明白であり、法益の権衡についても、ウノの生命とウノの身体に対する苦痛の除去とが比較較量の対象となるが、両法益が同一人に帰属する場合にも緊急避難の適用が考えられ、ウノ自身が身体に対する苦痛の除去のために生命を捨てると決意した以上、結局、本件は繁急避難行為にあたるものである。(三)仮りに、本件が違法阻却されないとしても、本件は、期待可能性を欠く、即ち、具体的事案においては、本件は、被告人が適法行為をするということは、ウノをあと数日間死にもまさる苦しみに放置することを意味するものであつて、そのようなことは、昼夜献身的に付き添い続けた被告人にとつて、到底期待できなかつたことである。(四)以上のとおり、被告人は無罪である。仮りに、そうでないとしても、過剰避難行為として、被告人に対して刑が免除されるべきであるというのである。

しかし、弁護人の主張は、いずれも理由がないと考える。以下、当裁判所の判断を示す。

(一)  正当行為について、本件は、刑法三五条にいう正当行為としての、いわゆる安楽死としては、次に述べる理由によつて認めることができない、即ち、刑法三五条の正当行為に当たる、いわゆる安楽死が考えられるとするならば、名古屋高等裁判所昭和三七年一二月二二日判決の指摘するように、それは、原則として、医師の手によらなければならないと考える。医師以外の者にそれを許すとしたら、濫用の危険は甚だ大きいといわなければならないから、原則と医師の手によるべきである。しかして、例外的に、医師の手によることができない特段の事情があれば、医師の資格がない者が行つても、認められる場合もありうると思われる。本件では、医師の資格のない被告人が行つたものであるが、ウノは病院に入院中で、医師の医療行為を受けていたものであるから、医師の手によることができない特段の事情はなかつたというべきである。医師が不治の病及び死期切迫を確認しながら安楽死の頼みを拒否している場合であつても、それが右の特段の事情に当たるということはできないと思われる。

更に、いわゆる安楽死の実行方法としても、また、前掲判決の指摘するように、倫理的にも妥当なものとして容認されるものでなければならないと考える。単に、死にゆく者の苦痛が少なければそれで足りるものとは思わない。本件では、被告人は刺身包丁で胸部を二回刺突しているが、このような、刃物を用いた殺害方法が果たして倫理的に妥当なものといえるものか甚だ疑問であり、消極に解さざるをえない。

したがつて、本件は、少くともこの二点において、刑法三五条にいう正当行為には当たらないというべきである。

(二)  緊急避難ないし過剰避難について、本件は、緊急避難ないし過剰避難には当たらないというべきである。即ち、刑法三七条一項に照らすと、まず、本件において、身体的苦痛があり、危難が現在していることは明らかである。しかして、比較較量すべき両法益が同一人に帰属する場合にも緊急避難がありうると考えられる。本件では、ウノの身体的苦痛を除去するために同女の生命を奪つたというのであつて、そこで比較較量すべきものは、ウノの生命とウノの身体的苦痛から免れることとである。しかし、身体的苦痛は、人生命を前提として存在するものであり、この苦痛を免れるということも、生命がなくなれば同時にその存在を失うと考えられる。したがつて、身体的苦痛を除去するため生命を奪う場合には、保護されるべき法益は存在しなくなるのであるから、刑法三七条一項にいう、身体に対する現在の危難を避くるためというのは当たらないというべきである。

更に、本件で、仮りに、緊急避難が問題となりうるとしても、被告人として、ウノが激痛を訴えたときに、医師に連絡して、その激痛を緩和すべく鎮痛の処置をとつてもらうことが十分期待できた筈であつて、ウノの身体的苦痛を避けるためにはウノを殺害することが唯一の方法であつたとは到底考えられない。

したがつて、本件は、刑法三七条一項の緊急避難には当たらないというべきであり、これを前提とした過剰避難にも当たらないと考えられる。

(三)  期待可能性欠缺について、本件において、被告人には期待可能性が存したというべきである。即ち、本件犯行に至るまでの経過及び本件犯行当時の事情は、おおむね前判示のとおりであつて、このような状況のもとにあつて、被告人として、ウノの頼みを拒否し、激痛に苦しむ同女を見守つていることが相当容易でないことは十分理解できるけれども、しかし、行岡医師からもさとされているとおり、あと一週間の我慢であつたと思われ、鎮痛、鎮静、催眠などの薬効がなかつたわけではなく、被告人に対し、ウノを殺害する以外の、他の適法行為に出ることを期待できなかつたものとは認められない。

(法令の適用)<省略>

(量刑の理由)

本件は、前判示のとおり、がんに侵され激痛に苦しむ妻の嘱託により、刃物で同女を殺害したという事実であつて、本件犯行の罪質、態様、結果、並びに前科に徴すると、被告人の刑事責任を決して軽視することはできない。

しかしながら、被告人は、本件犯行に至るまで前示のとおり、昼夜を分かたず、一人で、誠心誠意付き添い看護を尽していること、妻に対する深い愛情の故に、かえつて、医師からあと一週間位だから我慢しろと言われながらも、被告人としては、妻の激痛に苦しむ様子を見守るのは、相当心を痛め容易ではなかつたと思われ、その心情は察するに難くないこと、本件で、刺身包丁を用いた理由も全く理解できないわけではないこと、ウノの唯一人の実子も、本件を通じ、被告人の処罰を求めず、むしろ、被告人に同情していることその他被告人に有利な事情を十分斟酌して、主文のとおり量刑した次第である。

そこで、主文のとおり判決する。

(萩原昌三郎)

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